今朝、radikoで「火曜日のスカロケ」聴きながら走っていました。
風強かったけど、(この時期)雨が降っていないだけで十分(贅沢はいいません)
「ニックネーム」案件
福井県の中学生のころ、教室にストーブがあって、灯油を入れる係になった人つけられたた渾名が「石油王」(一生に一度でいいからなりたいねー 無理)
「ひょん」なことから(遠い記憶の中に埋もれていた)記憶が蘇りました。
『そうだった! 人生で一度だけ文通したことあったんだ。』
中学2年の頃(この「中学生の頃のストーブのイメージ」が記憶を呼び覚ましたんでしょうね? 新潟もストーブありました。)女子生徒が名古屋に引っ越すことになりました。
どちらかというと大人しい女子生徒で、特に親しくはなかった(学級委員で一緒に仕事をしていたかもしれない 男子が「学級委員」女子が「副委員」かな? こう考えると「女子が副」というのが当たり前の時代だったんだなぁー)
其の女子生徒が引っ越す際に『文通してほしい』
何度か手紙のやり取りをしたことは記憶に残っているのだけど、「いかんせん」内容の記憶が全くない!(だから深い記憶の底に沈んでいたのでしょう)
終わりは唐突に来た。
「そんなんじゃ、〇〇ちゃん。泣いてるんだからね。」
文通を知っていたクラスの女子から攻撃されたのです。
その頃、級友の「何気ない一言」が私を大きく変化させ「人生の反抗期」が始まったのです。
当時「ギザギザハートの子守歌」に憧れた少年の一人だったのでしょう。
現在は2泊3日が標準かと思いますが、保険の事情があり、当時(2018.〇月)の全摘の標準だった3泊4日にしていただきました。
決して田〇先生を信用していなかったわけではございません(笑)
腋窩リンパ節をレベル3まで郭清、全摘手術をしていただきました。
術後病室に戻り、胸から腋の「重苦しさ・痛さ」が酷く、
点滴の痛み止めが効くのを待てずに看護師さんにボルタレンしていただき、落ち着きました。
私は以前サイトに掲載されていた「手術を受けた方の感想」を読み、手術前の不安を落ち着かせていたのですが、温存部分切除のみの方の感想と思われる、「全く痛くなく手術したことを忘れてしまう程」というような記述は、レベルⅢ郭清&全摘の自分には当てはまらないのだな(個人差)ということを実感しました。
その後は順調に回復し、痛いものの腕は挙がり、お陰様でトラブルなく無事退院することができました。
(鎮痛剤は自宅ですべて飲み切りました)
現在は放射線照射の影響が加わったからなのか、術後すぐとの比較で肩関節の可動域が狭くなっており、(PMPSの一連の症状でしょうか)継続的なストレッチが必要なのだ思っています。
今迄、ランダムに紹介してきましたが、暫く「参考になるものの厳選」でお送りします。
是非、ご参考にしてください。